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南宋女子分法再考




copyright : 青 木 敦

この文章は、『中国−社会と文化』18(pp.152-172,2003年6月)から、一部を改訂して掲載したものです。このウェッブサイトから見られる内容は、参考のためのオンライン用の改訂版であり、原文とは違っています。引用される場合には、必ず原文にあたり、出典を明記して下さい。このウェッブからの引用は、慎んでお断り申上げます。はなはだ未整理のページで、見苦しく、お詫び申し上げます。

 

はじめに

 

 一三世紀に劉克荘が饒州で扱った訴訟の書判に、「父母已亡、児女分産、女合得男之半」という「法」が引かれている。彼はその書判の冒頭において

  法に「父母が亡くなり、男の子と女の子が家産分割するときは、(むすめ)(むすこ)[1]の半分を得る」とある。父の死後生まれた(むすこ)もやはり(むすこ)だ。周丙の死後、家産を合わせて三分割し、その(むすこ)に二、細乙娘に一の割合で与える。このように分割すれば、まさに法の意図に沿う[2]

と述べ、以下、(むすめ)の婿が已に死亡した周丙夫妻から財産を摽撥されたと主張して乗っ取りを図った事件が記される。当該県の県尉は、劉克荘の判断に先立ち、北宋の知杭州張詠がある死亡した富民の子と婿に遺書の数字を用いて七:三の割合で財産分割を行った故事[3]を引用した。これを受けて劉克荘は、県尉の引用したこの故事は、現行法の「女得男之半」の意である、として男女比二:一での家産分割を指示した。この、法律条文としてはいささか奇妙な文言とも言える、「父母已亡、児女分産、女合得男之半」が所謂南宋の女子分法である[4]

 しかし、動産が女子に分け与えられることはままあっても、中国法の伝統には、両親死亡時に(むすめ)(むすこ)の二分の一という高率で家産の分割に与かるとする規定は、他に類例が見られず、しかも社会的にも、このような家産分割は「男承家産、女承衣箱」「男承家産、女承吃穿」などといわれた男子による均分の原則とは異なるものであり、この南宋女子分法は極めて例外的な規定であるとされた。この規定を巡り、宋代は女子にも財産権が大幅に認められていたとする仁井田陞氏に対し、滋賀秀三氏は、女子分法は例外に過ぎず、女子に財産権が認められることはなかったとの立場をとった[5]。この論争は、明版『清明集』の発見とともに再び活性化し、柳田節子氏[6]が、明版中より女子が財産分与に与った事例を指摘し、南宋では女子に一定の財産権があった事を示した。永田三枝氏[7]など、女子分法の例外性・非重要性を強調する点で滋賀説を強く支持する立場も多く、近年は日・米・台の若手研究者の参入も相次いでおり、この僅か十四文字の「法」をめぐる論争は半世紀近くたった今日に至って、ますます盛んとなっている観すらある。よって、これについて論ずるならばまず論争の経過から詳述すべきところであるが、その紙幅的余裕はなく、本稿では全面的回顧は行わない。またこれまで各論文中あるいはレヴューで数多く学説史紹介が行われ、また本誌においても小川快之氏が『清明集』に関する動向紹介の中で、この問題に触れられる予定であり、詳細はそれらに譲りたい[8]。だが総じて言うならば、最近の論争の焦点は、@女子分法なる法律は存在したのか、A存在したとすれば、何故このような「例外的」「異質的」な法律が南宋時代に見られるのか[9]、という二点に集約されると言えよう。そして一方、仁井田氏、柳田氏ら一部の論者が提起した、民間の慣習(女子への財産分与)の存在の問題、さらに仁井田氏が南中国の慣習ではないかと指摘しながら結局根拠不十分であったために滋賀氏に論破された、地域的傾向性の問題については、近年は殆ど議論が行われていない事実もある。さらに、全体として法律の文言としては少し奇妙な雰囲気があることも、関係者が共通して感じているはずであろうが、これは女子分法の存在否定論(後述バーンハート説)の根拠として意識される以外、積極的な説明、仮説等が示されたことはなかった。

 本稿は、何らかの法制史的な新解釈でこの論争にまつわる諸問題の全面解決を目指すものではない。本稿が問題にしたいのは、この問題の持つ幅の広さと、従来のアプローチの関係という点なのである。つまり、かくも多くの論争が行われつつも、当初の仁井田慣習説、女子の地位と密接に関連付けてこの問題を扱ってきた柳田説、エリートの嫁資重視のイーブリー説[10]など若干の社会史的アプローチを除けば、殆どすべてがこの議論を法制史の問題として扱っており、就中、本論第一節でその若干例を取り上げるように、近年は特に女子分法の存在・不存在を如何に法律的・政策的に整合的に説明するか、という点に力点が置かれてきた。しかし、本来この問題は本質的に、従来論じられてきた以上に多岐にわたる論点を持つはずである。

例えば第一に、慣習や女性の地位を問うならば、これは、(おとこ)(おんな)の社会的関係つまりジェンダーにも関係する。女子が家産分割に与るというこの法律や裁判官の示した規範が奇異であるというなら、それは如何なる社会において奇異であるのか。確かに、滋賀氏が俚諺から華北農村調査の結果までをも見渡して得た、祭祀継承と家産分割が男子において受け継がれる意識は、氏の所謂「中国家族法」の原理の中核であり、これと女子分法は整合的でない。だが、この南宋の裁判が行われた舞台が「中国社会」と呼び得るか否かという根本的問題さえ、本格的に問われたことはなかった。まずエスニシティの面から考えるのなら、後にも触れるが、この問題の舞台となった湖南、江西などは非漢族の存在が重要な地域であった。洞庭湖以南には様々な非漢民族と見られるグループが勢力を有しており、湖南九郡は宋朝の行政人事においても徭族の動向の影響を深く受けたし[11]、江西も彭氏をはじめ非漢族の力が強く、唐末五代以来、吉、袁、撫諸州などは彭氏、危氏が分治する状況があった[12]。宋慈、范応鈴、史彌堅を筆頭に、劉克荘や蔡杭といった『清明集』の名公たちや黄榦は、まさにこの王朝の政治力のフロンティア地域において、時には非漢族を相手に宋朝の裁判官として利害調整に当たっていたのである[13]。例えば女子分法利用の一例において主役を演じる「田県丞」[14]にしても、証明は難しいにせよ、江西の彭士愁に帰順した蛮酋五姓の筆頭である田姓[15]である可能性を、筆者は未だ捨てきれずにいるのである。非漢族が多かった地域のジェンダー関係については本稿では第二節で僅かに触れるが、議論にあたって史料的に難しいのも事実である。そして仮にこの女子分法適用対象がやはり漢族であったとしても、果たして当該社会における男女関係が、滋賀氏が「中国家族法」と一括して描いた原理に基づいて考えるべきものか否かは、自明ではない。滋賀氏は、父の家産を「股份」と考えれば、その分割に当たり兄弟たちは一人々々が一股を得るが、女性はこの股の概念とは無縁であるとして、家産分割に於いて(むすめ)に言わば「半股」を認める南宋女子分法は「伝統的な法意識から見て、異質的な内容」であり、社会慣習としてもありえないことを強調した[16]だが、果たしてあらゆる漢族社会がかかる意味における「中国家族法」を共有していたのか。漢族が思想として持つ様々な側面おいて、女子が半股を取るという「原理」は絶無と言い得るか。従来の諸研究が、エスニックな漢族という概念や、中国、中国人という言葉の用法において、いまだ検討すべき課題を残しているのは否定できまい。

看過されがちであった問題点の第二として、社会的な慣習・実践と法律の関係がある。筆者なりに解釈すれば、仁井田氏は当該法規を社会関係の反映と捉えたが、論争以降、この問題をめぐって慣習と「法」の関係に関して、今ひとつ具体的な議論は行われてこなかった。確かに女子が現実に高率で分産に与る事例は少なからず柳田氏らによって明らかにされてきたが[17]、法がそうした現実から遊離して存在し得たのか、対応して作られたのか、議論は進展を見せていない[18]。女子分法を女子保護の宋朝的な政策表現と捉えた津田氏以外、法が何を目的として作られたのかが積極的に論じられたことはなかった[19]。しかし、中国法制史上、この法律が一三世紀江南にのみ見えるのであれば、社会的慣習や実践と法律の関係における、地域・時期といった要素はやはり避けて通ることは難しいであろう。ところで、法制史研究者としてこの問題を長く追及してきたのではない筆者が本稿で特にこの問題を扱う理由は、この実際の社会的慣習ないし実践と法律との関係は、中国史的にではなく、地域史として考えられなければならないという思いがあったからである。つまり、こうした事例の舞台となった江西[20]という地域に関連付けて認識された法文化について筆者が従前行った検討では、健訟や訟学で著名な江西一帯において、裁判において法律が重視され、民が法を知るということも、治安維持上、期待される場合があったこと等が明らかになった[21]。ことに江西湖南各地で任につき、「発擿すること神が如し」と訴訟処理で名を馳せた范応鈴は、他の名公の中でも判語中で法律を引用する率が極めて大きいばかりでなく、論理的な条文の解釈論、そして法的正当性を持つ契約書や郷原体例―議論はあるが、現地の慣習と解する―といった言わば客観的根拠を駆使する姿勢で裁判を行った。范応鈴は一つの典型であって、宋代でも江西・湖南出身で、法律重視の裁判官は、決して少なくない[22]。そして宋朝の法典体系そのものも、こうした裁判の傾向性に適合的な、具体的かつ詳細な基準を提供するものであったのである[23]。女子分法を考える際には、そもそも戸絶ではない場合に女子に家産の大きな部分を分け与えるという現実があり得たか、という問題と、そのような内容の法律がなぜ存在し得たか、という問題の二面を考える必要がある。前者について、嫁資の保証などの目的のもとに、女子分産事例が少なからず見られることは、これまで柳田、津田両氏の研究などで、十分に明らかにされている[24]。とすれば、かかる女子分産の紛争を処理するに当たり、何らかの法規なしには処理が難しかった地域において、裁判官たちがそのような法律を必要とし、かつ雑多な大量の法律を発布し続けた宋朝が、戸令あるいは何らかの適合的な法律を準備し、劉克荘らがこれを用いて現地での紛争処理に臨んだと考えるに、さほど無理は感じられない。女子分法と不可分の戸絶財産法[25]の存在についても同様である。むしろ本稿が喚起にしたいのは、例えば、この地域に関係してくるであろう非漢族系の諸グループのジェンダー関係、あるいはフロンティアにおける女性の地位の問題[26]、劉克荘の裁判手法など、検討すべき課題は多い。しかしこの論争全体が、こうした論点の広さとは対照的に、法律論として収斂していった結果、ことさらこの法律の異質性が問題とされ、最近ではキャサリン・バーンハート氏[27]や佐立治人氏[28]から、その存在自体を否定的に見たり、大幅な衍字を予想する新たな仮説が提出されるに至ったことは、指摘せねばならない[29]

そこで本稿では、史料を率直に読めば一定の条件下であっても女子に男子の半分の家産を分け与える法律が存在したのは疑いないにもかかわらず、従来の少なからぬ研究においてなぜそこまで女子分産の慣習あるいは法律そのものまでが否定されようとしたのかを再検討したうえで、滋賀氏による否定以来、殆ど省みられることのなかった地域性の問題、すなわち史料の如何なる残り方が、仁井田氏らに如上の印象を与えていたのかを再検討したい。また、エスニックグループの特定は困難であるにせよ、かりに順当に漢族であるにしても、非エリートの世界には様々な思想が存在し、少なくとも滋賀氏がこの議論の本質として強く拒絶した、(むすめ)(むすこ)の「半股」を得るという原理的思想が存在した可能性を、法制史的・儒家的伝統ではなく、(おとこ)(おんな)の量的関係についての陰陽家的な伝統の中に検証してみたい[30]

 

第一節  女子分法を巡る論争の現在

 

上記の@女子分法なる法律は存在したのか、という点に関し、滋賀氏は「父母已亡、児女分産、女合得男之半」は「取意文であるに違いない」[31]とされ、その正確な条文を知り得ない上で議論を行うことを憂慮しつつも、一応こうした内容の法律の存在自体は認めている。ところが近年のバーンハート論文では、その法律自体が存在しなかった可能性が強く示唆された。また佐立氏の近論でも、実は従来誤って復元されてきた唐戸令応分条が女子分法そのものではないか、という仮説が主張された。これらはいずれも仮説の段階に止まっているが、女子分法の存在そのものを否定する議論として、検討を要する。

 まず佐立氏の議論から取り上げたいが、従来の殆どの学者は、劉克荘が引く法令の存在を認めている。だが佐立氏は、女子分法は戸令応分条そのものではなかったか、と主張される。この女子分法と、同比率の娉財取り分を「姑姉妹在室者、減男娉財之半」と規定する唐戸令応分条との関連は川村康氏により指摘されている通りであるが[32]、佐立氏はさらに、『宋刑統』巻一二戸婚律、卑幼私用財条に附載の「戸令」に基づいて、仁井田氏が『唐令拾遺』において復元した唐戸令応分条と、日本養老令を比較したうえで(以下、法条文の文言が重要である場合、日本語訳は載せない)、

  諸応分田宅者及財物、兄弟均分。……兄弟亡者、子承父分(継絶亦同)。兄弟倶亡、則諸子均分(其父祖永業田及賜田、亦均分。口分田、即准丁中老小法。若田少者、亦依此法為分)。其未娶妻者、別与娉財。姑姉妹在室者、減男娉財之半。寡妻妾無男者、承夫分。

などとあるこの規定には、未婚男子がいれば在室の姑姉妹はいくらか娉財を得られるが、未婚男子のいない在室の姑姉妹の娉財の取り分はゼロになってしまう、或いは、未婚の男子が娉財用に受け取る額が多く、既婚男子が分与にあずかった額の二倍を越えてしまう場合には、在室の姑姉妹の分は既婚男子の取り分よりも多くなる計算になる、といった、不完全さが見られるとする。

 これに対してわが養老戸令応分条は

  凡応分……嫡母、継母、及嫡子、各二分。(妾同女子之分)。庶子一分。妻家所得、不在分限。兄弟亡者、子、承父分。(養子亦同)。兄弟倶亡、則諸子均分。其姑姉妹在室者各減男子之半。(雖已出嫁、未経分財者、亦同) [33]

となっており、単純化して言えば、財産分割において、嫡子:庶子:姉妹(叔伯母も同じ)=四:二:一、この嫡子:庶子=二:一を食封相続法の特殊事例として嫡子の取り分を無視して考えれば庶子:姉妹=二:一、つまり男女の取り分比率は二:一になる、という。そして、この養老戸令応分条で「嫡母・継母」の死亡が必ずしも家産分割の条件でなかった点も除くと、劉克荘の、両親死亡後の財産は男:女=二:一とする、という女子分法と一致するという。なお氏は、女子分法で財産を割り当てられる女とは、在室に限らない、と解釈する。また本稿冒頭に触れた北宋張詠の判断は養老戸令応分条に基づくと推測する。

 そこで仁井田氏『唐令拾遺』での復元(『宋刑統』による)のうち、「減男娉財之半」の「娉財」は衍字か「後人の加筆」であり、更に「各」字を補って、元来この部分は養老戸令と同じ「姑姉妹在室者、各減男之半」であった、との「仮説」を立てる。そしてこれこそが女子分法であったという主旨である。

だがこれに対しては幾つかの事実を指摘せねばならない。例えば「其未娶妻者、別与娉財。姑姉妹在室者、減男娉財之半」とは、未婚の男子と未婚の女子がいるという特別な場合に於いてのみ、女子の娉財の額が男子のそれの半分程度でなければならぬ、と要求しているだけだと考えれば、不自然とは言えない。また張詠が男子:婿(=既婚女子)=二:一という比率に従ったとの推測には根拠がないから、「劉克荘が言及する女子分法と同じ内容の法律が、北宋初期に既に存在していた可能性を見出す」のに既存の史料はまだ十分とは言えない[34]。こうした点を考えれば、『宋刑統』の「娉財」が衍字や加筆であり、唐戸令応分条の本当の姿が日本養老令そのものに近かったという「仮説」は十分に証明されたとは言いがたい。

確かに女子(既婚女子を対象とする場合もある)に男子の半分の財産を与えるなどとする養老戸令応分条には、『宋刑統』に見られる応分条よりも件の女子分法に近い側面があるし、しかも後に述べる陰陽家的な解釈からは、「各減男之半」という言い方のほうが自然ではある。だが、それでも最終的な判断の為には、唐令に関する『宋刑統』と養老令の関係を広く検討せねばならないだろうし、もし養老戸令が唐戸令であり、さらに南宋女子分法であるとすれば、唐戸令応分条は養老戸令応分条と異なり、遺産相続法ではなく家産分割法であるという中田薫[35]氏以来の中国家族法に対する理解を含めて、唐宋時期法典全体像の再考が必要となる。暫時、佐立仮説には不従としたい。

次に、上記のバーンハート説を検討したい。氏は、南宋の女子分法は劉克荘の二件の判語以外にその存在を示すものはなく、この法は中国法の原則にも矛盾し、国家の財政的利害や、農民の経済的利害にも反するという。そして劉克荘の引用は、胡頴も引用する所の戸絶財産法ではなかったか、と結論付ける。津田氏は、戸絶でない女子分法適用事例に劉克荘が戸絶財産法を間違えて引くとは「よほどの迂闊でなければ起こりえない」などとバーンハート説を批判されるが[36]、これ以外にも、検討すべき点は少なくない。劉克荘の引く女子分法が矛盾を孕んでいるという氏の主張の根拠としてポイントとなる論点を約四点挙げれば、@『清明集』に載せられる多くの判語のうち、これ以外の誰一人として女子分法を用いていない。例えば、通城県の事例では、既婚女子三人、未婚女子一人、異姓より立継した子一人のうち、亡父の財産は子に相続されており、女が子の二分の一の分与に与かることはない(巻七「立継有據不為戸絶」(司法擬)二一四頁)。Aこの通城県の事例にも見られるように、未婚の女子がいても立継に一切を相続させる「定法」があったとすれば、女子分法とは矛盾する。戸絶法により設定されていた相続額の上限にも抵触するのではないか。B個々の家族にとっても国家にとっても財政的に不便である。(a)個々の家族について言えば、女子が多ければ家産の多くが他宗に流出してしまう。(b)国家について言えば、女子に伴って他村に移転した土地は、登記上複雑化して、徴税の際に混乱を伴うことになる。さらに、パトリシア・イーブリー氏の持参金説[37]も、より説得的であるとはしつつも、女子にこれだけの持参財産を認めれば、エリートに対して、欲得ずくの結婚を助長することになる。(イーブリー氏の、劉克荘が生前と死後の財産分割を意識していたという仮定は成り立たない)。Cその他、「児女」という言い方、「在室女」でなく「女」という言い方が法律用語としてそぐわない、女が多い場合総額が増えすぎ、計算に合わない(佐立氏も同様)、などの問題点を挙げている。その上で、氏は胡頴の『清明集』巻八「侵用已検校財産論如擅支朝廷封樁物法(二八〇頁)の判断と、劉克荘の田県丞の判断の類似性に注目しつつ、劉克荘は戸絶財産法を自分なりに引用したに過ぎず、女子分法などというものはそもそも存在しなかった、という可能性を強く指摘し、これが劉克荘による我流の解釈であったという滋賀氏の見解を裏付けようとしている。確かに女子分法が范応鈴の言及を除けば劉克荘の文章にしか見られない事実 − つまり史料が少ないということ − は、この法の存在に対する不信を常に我々に与えているし、氏の議論のうち、幾つかの論点(例えば上記Bb)は考察の余地がある。だが、他の官僚が用いていない、計算上不整合な事例が有り得る、他の法令と矛盾する部分が出てくる、といった論点は、決してかかる法令の存在を否定する理由にはならない。近代法とは異なり、現実に不都合がある場合にまで常に法律が適用されるとは限らず、原則的に相互に矛盾する法律がある場合には後法が優先される[38]。特に@、Aは女子分法の存在への疑問の論拠となり得ないことは明らかだろう。第一、女子分法と戸絶財産法では、文言が違いすぎる。また、「他郡均分之例」の解釈など、若干の論点には疑問を感じる[39]。ただバーンハート氏自身も、「存在しなかった、あるいは存在しても極めて特異……」とその存在可能性を留保している。よって、バーンハート説はさらに更に検討せねばならないものの、現時点では劉克荘の言に信を置き、存在したと解釈すべきであろう。なおバージ氏は近著において女子分法について触れているが、バーンハート説への見解は他日示すとされている[40]

これら最近の議論に特徴的なのは、国法というものは相互に無矛盾であり、整合的であり、法の内容はあらゆるケースをカヴァーしている、という強い意識の基に議論が進められている点である。例えば佐立氏が仁井田氏『唐令拾遺』復元応分条を批判する際に行われた、未婚男子のいない在室姑姉妹の娉財の取り分がゼロになるとか、既婚男子の相続した財産の二倍以上の財物を未婚男子が娉財用に受け取る場合に(これも極端な想定である)在室姑姉妹の娉財受け取り分が既婚男子の相続額を上回る、といった計算、またバーンハート氏の、女の取り分を足すと親の財産を上回るという計算、戸絶法に定められた上限額を上回る可能性のある法は存在しないという議論は、確かに計算上はそうなるが、女子分法の内容を否定する根拠とはなり得ない。宋朝の雑多な法令がそこまでの整合性を具備していると考える必要はないからである。

あくまで「中国家族法」全体の構造(滋賀、永田、バーンハート、佐立諸氏ら[41])、乃至女子財産権に関する立法の意図(津田氏等[42])が強く意識されてきたのに、仁井田氏、柳田両氏[43]を除くと、社会経済的視点は驚くほどに議論されていない。しかし、仁井田氏にこれが南中国の慣習であるという漠然たる印象を与えた根拠は(それが単に南宋に見える法であるという理由は受け入れられないが)、実際のそれらの諸法律の適用事例の地域的広がりに見られるのである。

この適用地域の問題について最小限これまでの議論の確認と、関連する新しい史料の紹介を行っておきたい。まず劉克荘の女子分法に関連する二つの判語はともに饒州のものであり、同じく男女比二:一を示唆する「他郡均分之例」を引く「女合承分」(巻八)も、正確には分からないが、范応鈴の任地である。この范応鈴は専ら江西や湖南の地方官を歴任し、訴訟処理能力を高く評価された(前述)。また女子の財産権に関する法律を検討しようとするならば、女子分法のみならず、上記の戸絶財産法についても参考までに一見しておかねばならぬであろう。戸絶財産の取り分を定める宋朝の法律は、時とともに細かくなってゆくが、これを引用して解決を図る判語としては、『清明集』戸婚門に

 

a「羅乞将妻前夫田産沒官」(巻四、范応鈴、一〇七頁)

b「熊邦兄弟与阿甘互爭財産」(巻四、范応鈴と考えられる、一一〇頁)

c「継絶子孫止得財産四分之一」(巻八、劉克荘、二五三頁。亦見『後村集』巻一九三「建昌県劉氏訴立嗣事」)

d「命継与立継不同」の「再判」(巻八、著者不明、二二六頁)

e「処分孤遺田産」(巻八、范応鈴、二八七頁)

 

があり、うち著者不明のdを除くと、a、b、eが范応鈴、cが劉克荘である。地域的に明らかなものとしては劉克荘のcが饒州、dは福建北部、eは江西[44](あるいは湖南)の事例だし、一般的に言って、范応鈴のものは、江西の事例が多い。さらに、南宋の江西の墓誌に載せられた趙継盛なる人物の隆興府(南昌)での次のような事例がある。

  龔暘なるものは死亡して息子がなく、出嫁女が二人、在室女が二人いたが、甘という(出嫁女の)婿が家産の乗取ろうとした。趙継盛はついに法律条文に基づき、尽く差し押さえ、四分の三を二人の在室女に分け与え、四分の一を命継に継がせた[45]

戸絶の家に命継を立て、取り分は一人当たり、出嫁女ゼロ、在室女合計3/4、命継1/4となるから、ここに言う「照条」の法条とは、さきより見ている命継に分産する戸絶財産の法であると考えられる[46]。このようにしてみると、特に女子分法や戸絶財産法の裁判における適用は、范応鈴をはじめとして、江西一帯における事例が多い。『清明集』全体の判語としては、江西、江東、福建、両浙などが多いが[47]、女子分法など女子分産関係の法の適用は、「命継与立継不同」が福建の事例であるにせよ、地名のわかるものは圧倒的に江西が多い。もっとも、国法とは多くが全国に施行されるものであり、以上に見にみた地域的傾向性は偶然か、『清明集』等の史料の残存過程で現れてきたにすぎず、そのまま現実の適用事例に地域差があったとは言えない、との反論も現段階ではありえるだろう。だがそもそも宋朝という王朝が、少なくとも裁判処理の面で治安維持に腐心していたのはほかならぬこれらの地域であり、そのこと自体が『清明集』編纂への影響を始め、健訟への認識等様々な史料的影響を残している。そしてこような残存史料中の適用事例の地域的偏りが、仁井田氏らに女子分産慣習の地域性についての漠たる印象を与えた原因であり、そうした傾向性は確かに存在するのである。

 

第二節 「女減男之半」

 

 さてここでもう一度、これまでの議論を整理し、残された問題を指摘したい。仁井田−滋賀論争は尾を引き、上述の諸仮説も登場するに至ったが、それらは未だ証明されたとは言えない。確かに南宋女子分法は言われるように節略文かもしれず、少なくとも実際の適用には、子供たちが幼少であるなどいくつかの条件が存在したと思われるが、女子分法の文言の意図する通りの規定が存在したと考えることになんら障害はないのであり、また上述のように仁井田氏以来追求されることのなかった地域性の問題もやはり存在する。

 この地域、この時期に女子分法や複雑な戸絶法を用いた女子分産の裁判事例が見られるのは、法重視の地域社会、そしてこれに適合的な詳細な法令を発布する法律体制を持っていた宋朝という王朝の存在を考えたときには決して不思議ではないことはすでに述べた。では、南宋女子分法の援用が、紛争解決に寄与したような社会−すなわち、女子が男子の二分の一の家産を承継する決定が、問題を解決に導くような社会が、当時、そこに存在していたのだろうか。一つの可能性としては、最初に述べたような、湖南から江西の一部に当時、相当勢力の非漢族がおり、宋朝の地方官たちが裁判において、彼らへの対応を迫られていたことである。後代の人類学的角度からの比較検討が必要なことは言うまでもないが、当面、当該地域のジェンダーについて、少なくとも次の記事に着目しておきたい。『岳陽風土記』に見える洞庭湖北辺の「江西婦人」[48]の表象、および湖北湖南付近に見られる若干のジェンダー関連の記事である[49]

北宋末・元符三(一一〇〇)年進士の范致明の同書(一巻)が述べる所によれば、この地の婦人は、薪の切りだしなど男の仕事をなし、男を打ち負かさなければ陰で詆訟(なじ)られた。湘湖の民は、歳時に集まり祈祷し太鼓を打ち、「歌場」で男女ともに踊り歌う。往々にして男子が生まれれば(いりむこ)となし、女の子が生まれれば逆に招壻をする。男が女性の家を受継ぐに労を憚らず怨悔もない、ともいう。彼女らの労働に適した襷のような帯は、七擒七縦の際に武候(諸葛亮)が帯びたのを畏れて身につけ、これは巴陵から長江西岸、華容、さらには洞庭湖西岸の澧州・鼎州(常徳府)にも見られるという。ほぼ同様の地域の婦人は、一種のバンダナ状の様装をして伏波将軍馬援の持服を為したとも、述べている。南は湖南桂陽衡州付近から、北はここで述べられている洞庭湖北辺までは、ちょうど隋唐より徭族が多くいる地域と重なるが[50]、そこの女性たちが、蛮族を征服した古い時代の漢人将軍たちのシンボルを身につけるのはなぜか、そもそも彼ら自身が漢人なのか徭族等の非漢人であるのか、あるいは区別して論ずべきなのか、ここでは判断できない。しかしいずれにせよ、この范致明の記述は、湖南乃至湖北北岸には女性の地位が極めて高かった社会があったことを示しているし、また想起すべきこととして、律において厳しく規制されていた三歳以上の異姓養子が現実には広く行われていたことが挙げられる。特に湖南では異姓養子の禁止は弱かったとされ[51]、これらの地域―福建においても多く共通したと考えられる[52]―に於いては、法の原則や儒教的倫理が期待したのとは異なる、様々な男女関係があり得た。では女子分法は非漢族向けの専法であろうか[53]。それについて論ずべき史料をこれ以上持ち合わせていないのであるが、一方、以下のように考えれば、当該法が適用対象として漢人を含め想定したものと考えて不都合はない。

言うまでもなく、現実の社会には、伝統士大夫が許容し得、認識し得る秩序や、彼らがまとめる多くの国法が目指す規範的秩序とは別の秩序があり得る。つまり言うまでもなく、中国大陸に存在した多くの地域社会は、自らの社会秩序の形を記し、後世に伝え得る独自の言語を持たなかった。これを我々に伝えるのは専ら王朝的・伝統的な言語であり、そこでは様々な社会秩序が、無視され、あるいは伝統的な言い回しに当てはめて言い換えられ、時には侮蔑・厳禁されるべき風俗[54]として記述された。多く江南の山間部において、士大夫文化の主流や王朝の政治が仏教・道教系諸宗教を許容するか否かで揺れた事例は、喫菜事魔に関しても見られる[55]。現実社会がエリート史料に記される以上に多様であり得るならば、伝統的な家族法の規範としては異質であっても、(むすめ)に対する家産分配もまた、多様な地域社会の慣習としての存在までを否定することは原理的に不可能と言うべきであろう。男子による家産分割には男子による祭祀継承の裏づけとして意味があったにせよ、柳田、津田、イーブリー諸氏が認めるように、女子への家産分割にもまた嫁資の為の粧奩を必要とするという動機があった。さらに、滋賀氏は「法律関係と社会関係は次元が違う」[56]としてこの慣習の存在を否定されるが、思想的にも、社会的・民間的に女子が男子の半分を得ることに、まったく根拠がないわけではない。家族法の伝統からは異質かもしれぬが、女子に男子の半分の価値を認める「原理」も存在し得たのである。それを考える鍵となるのが、次に述べる男女比二:一という比率である。

 すでに見てきたように、聘財に関する戸令応分条は、女子に男子の二分の一を許すものであり、バーンハート氏が、劉克荘が勘違いして引用したとする戸絶財産法の「在室女依子承父分法給半」という規定を用いた、胡頴の判語[57]に典型的に現れているように、出嫁女の財産取り分は常に三分の一であり、戸絶でない家産分割である女子分法以外の場合にも、 男女比二対一の事例は少なくなかった[58]。また他の時期に目を向ければ、清朝の旗人で嗣のない者の家産を親女に給する場合、やはり三分の一とするという規定も康熙七年戸部則例に見出され[59]、あるいはこの比率は人にとって自然な数字であるかもしれない。だが、戸絶ではなく、幼いながら男子がいてなお、家産を男子の二分の一の割合で女子に与えるという法律が、「女合得男之半」という表現によって存在するためには、女子が半股を得るというまさに滋賀氏が否定した発想の存在を認めなければならない。またかりに女子分法が戸令応分条の影響であったとしても、なぜ男女比は二対一であって、他の比率ではないのかが問われる。

(おとこ)(おんな)の関係を考える場合、議論の俎上に乗せざるを得ない分野として、陰陽家の思想がある。ことに宋代以降の陰と陽の量的な関係について留意すべきは、『易経』の「坤」の「先迷後得、東北西南」の部分について朱熹が「大概是陰減陽一半」[60]と述べていることである。清・康熙九(一六七〇)年進士の張烈は朱熹の『周易本義』を宗となしたというが、彼は坤について「順は、その中の健によって保たれている。例えば牝馬が順にして健であるのは、貞である。つまり陰は、陽に敵わず、故に常に陽の半ばを減じるのである。陽は先んじてその後をひきいるが、陰はただその後にあるのみである」[61]、と述べている。これが右の朱熹の理解に通じることは指摘するまでもなかろう。陰陽家について筆者は必ずしも十分な知識を有していないのであるが、この問題について最低限の指摘をするならば、陰は陽の半分を減じるという考えが、陰陽思想の中には遅くとも朱熹の南宋には既に存在していたのである[62]。ではなぜ陰は陽の半分であるのか。そしてこれは男と女の関係についても言えるのか。右の張烈も陰は陽に敵わないからだと言っているが、これをさらに明快に述べたものとして、明・成化一七(一四八一)年進士の周gの記述がある。周gは、唐の武則天を漢の呂后と並べて論じ、「武則天は称制したにとどまらず、中宗を廃し睿宗を立て、淫穢の名を世に残し」云々と述べた次に、「女は陰であり、男は陽である。陽は陰を兼ねることができるが、陰は陽を兼ねることができない。故に、常に陰は陽の半ばを減じて与える(陰常減陽之半与)。男は女を兼ねることができるが、女は男を兼ねることができない。故に女は常に男の半ばを減じるのである(女常減男之半者)。これは天地の大義であって、陰陽の正道である。このことからすると、女主が陰、百官万民が陽であることになる。武則天は一介の陰でありながら、百官万民衆の上に在った。天地の義に悖り、陰陽の道も転倒している」[63]と武則天を批判。陽は陰を兼ねるが、陰は陽を兼ねることが出来ないが故に、女即ち陰は常に男即ち陽の半を減ずるというのである。女が男の半ばを減ずる、という思想を最も具体的に言い表した思想が、これらの陰と陽の原理的な関係である。既述のように、滋賀氏は父産を股分と捉え、一股を取る男子に対し、女子が半股という発想はないと強調した。だが再度繰り返せば、一般的に「女減男之半」即ち女は男の半ばを得るという思想は、少なくとも陰陽の関係としては自然な発想であり、上に述べたように、それは恐らくは南宋の朱熹の時代既に存在した。

またこの女子分法が裁判において用いられた江西こそ、宋から現代に至る陰陽家や、そしてこれと不可分の道教の最重要地帯であったことも看過し得ない事実であろう[64]。上記周gとほぼ同時期、明代弘治年間に江西提学副使となった邵宝の伝には、「江西の俗は陰陽家の説を好み、数十年も父母を葬らないものがある」[65]とあり、彼がそれを改善しようとしたと伝えられている。ちなみにこの不葬は、宋代以降、陰陽家と儒家の齟齬が顕在化する問題の典型のひとつだった[66]。久しく葬しないことについては『礼記』[67]から取り上げられ、魏晋南北朝期より呉興郡等などですでに忌迴などで長期にわたり葬しない例が見られるが[68]、宋代に至ると、士大夫がこれを陰陽説の影響であると批判する状況が突如広まった[69]。司馬光の「葬論」[70]は、陰陽批判の立場から不葬について論じた代表的な議論であるが、その内容は「山川岡畝の形勢を相、歳月日時の支干を考し、以って子孫の富貴貧賎と為し」云々と、畢竟、現代の風水観と変わらない[71]。不葬のごとく儒家的な士大夫の価値と対立的である場合には批判という形でその慣習が明確に記されるが、対立的であるか否かにかかわらず、陰陽的原理が非エリートの意識に大きな影響を持っていたであろうことは想像に難くない。そうとすれば、陰陽家的思想をことのほか重んじる道教の中心地たる江西においてこの時代、「女減男之半」「女合得男之半」という文言が民間に受け入れられたと予測し得る。とはいっても、南宋女子分法が陰陽思想から導き出されたことを証拠立てる記録はない。だが民事的裁判で法律が重要であったこの時期の江西一帯の裁判の中で、幼い孤児に家産を分配して保護するという案件を、民間の家産分割の慣習・実態に乖離しない範囲で解決する必要があったとき、全体的法的整合性や倫理、つまり女子分産を発想しないような宗の観念にも優先して、陰陽的な文言を持った女子分法が、裁定において相応の説得力を持っただろうことは、十分想像し得るのである。

だが女子分法の「女合得男之半」や戸令応分条の「減男娉財之半」(日本養老令の応分条では「各減男之半」)は、法の文言としては後代には見られない。それは第一に、新書と称される、多分に現実即応的な雑多な法律を量産する法典の政策は、宋朝で終わってしまい、明以降は刑法的かつ原理的側面が重視される律を中心とした体系に戻っていったからであり、朱熹自身の時代であればまだ民間の民事的な紛争処理に有効であった「女=半股」的な表現は、法として要れられる余地が無くなってしまったからであろうか[72]

そもそも残された史料が、民間の様々な文化をありのままに記述していたという前提は取りえない。つまり法律を中心とした公的な男系の祭祀の原理と齟齬するからといって、現実の社会における女子分産慣習の存在を全面的に否定することは不可能なのである。仮に人々の間に、未婚の女子に厚く将来の嫁資の為の家産を遺してもよいという感情が共有され、また女は男の半ばを得るという思想があれば、「女減男之半」と同じ原理の文言を持つ女子分法が存在し、劉克荘や范応鈴が裁判の現場でこれを適用、乃至意識して判決を下したとしても、我々はそれほど当惑する必要はない。

 

結語

 

 仁井田−滋賀論争以来、ここまで議論が紛糾した過程に何を見出すべきだろうか。本稿の方法論的議論の幅を必要以上に拡げることは望まない。しかしこの問題を論ずる以上、今日我々に残された諸史料からは一定の条件下であれ女子に家産を分け与える女子分法が南宋に存在したと解するのが最も自然であるにもかかわらず、ことさらこれを異質視し、様々な仮定を設けて衍字を想定したり、戸絶財産法の劉克荘我流の解釈であるとしたりする解釈までが行われたりした背景についての最小限のコメントは、避けるべきではなかろう。その背景のひとつとして、この問題の根本が「(おとこ)(おんな)」「法」「慣習」に深く関係するにもかかわらず、これまでジェンダー、エスニシティ、文化、地域といった概念が正面から取り組まれたことはなく、殆どが法制史の立場から、しかもしばしば「中国人」という一つの等質なグループが存在するがごとく論じられてきた点があげられる。従来の議論で「中国人」というとき、所謂エスニックな漢族を想定しているのか、中国法ないし儒教倫理における人間観を論じているのか、あるいは単に王朝の行政範囲に住む人々を指しているのか、明らかではない場合が、しばしばだった[73]。恐らく少なからぬ研究者にとって、「中国社会」なるものの存在が無条件に前提とされ、その特質なり独自性なりの解明が自己目的化し、さらに対象たる人々が「中国人(Chinese)」と一括して意識されることにより、議論が、人間社会の持ちうる多様性を排除しつつ、法から現実にいたる一貫した家族観・男女観を主張する方向に誘引付けられた。以下、まとめの意味で若干の指摘をし、今後の更なる議論を期待し、結語に代えたい。

まず、本稿では、この問題がどの程度、非漢族エスニシティにかかわるものか、十分な議論は出来なかった。だが、純粋に法制史的なアプローチだけではなく、仁井田氏以来決して体系的な進展を見せてこなかった、その裁判が行われた社会についての考察は、やはり不可欠であろう。本稿では女子分法が非漢族に対する専法であるという立場は取らなかったが、議論は十分に尽くされてはいない。また視野を多少広く取れば、非漢族エスニシティの間には、漢文法典を持ちながら女子が家産分割に与る規定・法律を持つ場合は決して少なくない[74]。これ以上の現在は議論は難しいが、少なくとも従来の研究における、ある種の議論の傾向については、再度考えてみる必要性を指摘せずにはおられない。

 

 



 

[1] 以下、やや煩瑣な感なきにしもあらずだが、文意を明確化するため、男、女に、おとこ、おんな、むすこ、むすめなど、必要に応じてルビを振る場合がある。

[2]在法「父母已亡、児女分産、女合得男之半」。遺腹之男、亦男也。周丙身後財産合作三分、遺腹子得二分、細乙娘得一分。如此分析、方合法意」(『名公書判清明集』(以下、本文も含め『清明集』と略称、中華書局本が唯一の版本なので頁数も記す)巻八「女婿不応中分妻家財産」(二七六頁)、劉克荘『後村先生大全集』(以下『後村集』)巻一九三「鄱陽県東尉検校周丙家財産事」)。

[3] 『宋史』巻二九三「張詠」伝、『景文集』巻六二「張尚書行状」など。

[4] 女子分法に関する史料は他に二つある。同じく劉克荘の「奉判、前此所判、未知劉氏亦有二女。此二女既是県丞親女、使登仕尚存、合与珍郎均分、二女各合得男之半、今登仕既死、止得依諸子均分之法、県丞二女合与珍郎共承父分、十分之中、珍即得五分、以五分均給二女。登仕二女、合与所立之子共承登仕之分、男子係死後所立、合以四分之三給二女、以一分与所立之子。如此区処、力合法意」(『後村集』巻一九三「建昌県劉氏訴立嗣事」、『清明集』巻八「継絶子孫止得財産四分之一」)という事案があるが、この部分を中心として要点を述べれば、財産はまず、県丞の妾劉氏との間に生まれた珍郎と養子の登仕の間で家産分割を行い、しかる後に珍郎と二人の女との間で、女「合得男之半」の原則により、珍郎二、女一人あたり一の割合で分割した。これが「法意」であるという。また『清明集』巻八「女合承分」(范応鈴、二九〇頁)に「他郡均分之例」に従って男女比二:一で分産する事例がある。後述。

[5] 仁井田陞「第三章 宋代の家産法における女子の地位」『補訂 中国法制史研究』東京大学出版会、一九八一(もと『穂積先生追悼論文集 家族法の諸問題』有斐閣、一九五二年、所収)、滋賀秀三『中国家族法の原理』創文社、一九六七(以下、滋賀氏『家族法』と略称。この問題に関する主要部分は「中国家族法補考(一)〜(四)ー仁井田氏博士『宋代家産法における女子の地位』を読みて」『国家学会雑誌』六七ー五・六、九・一〇、一一・一二、 六八ー七・八、 一九五三〜五五)。

[6] 柳田節子「宋代女子の財産権」『法政史学』四二、一九九〇。氏には他に「南宋期家産分割における女承分について」『宋元社会経済史研究』創文社、一九九五(もと『劉子健博士頌寿記念 宋史研究論集』同朋舎、一九八九、(書評)「永田三枝「南宋期における女子の財産権について」」『法政史研究』四二、一九九二においても議論を展開されている。

[7] 永田三枝「南宋期における女子の財産権について」『北大史学』三一、一九九一。

[8] 学説史を回顧したものとしては大澤正昭「南宋の裁判と女性財産権」『歴史学研究』七一七、一九九八(中文は大澤正昭(劉馨珺訳)「南宋的裁判与女性財産權」『大陸雜誌』一〇一ー四、二〇〇一)。事前に小川快之氏に内容を教示いただき、「『清明集』と宋代史研究」『中国ー社会と文化』一八、二〇〇三年も、この問題に触れる予定であることを知った。また游恵遠には「宋代婦女的財産権」『勤益学報』一一、一九九三があり、最近『宋元之際婦女地位之変遷』(新文豐出版公司、二〇〇三)を上梓されたが、入手が本稿執筆に間に合わなかった。

[9] この@については、滋賀氏以来本稿で以下検討する佐立・バーンハート両氏に至る主に法制史家による議論があるし、Aについては、たとえば一連の立法に、裁判を通じて戸絶あるいは父母が早く死んだ未婚女子を保護しようとする宋朝国家の意図を見出す津田(高橋)芳郎「親を亡くした女(むすめ)たちー南宋期のいわゆる女子財産権についてー」『東北大学東洋史論集』六、一九九五や、南宋期のエリートの結婚における嫁資の社会的重要性に着目したPatricia Buckley Ebrey.The Inner Quarters: Marriage and the Lives of Chinese Women in the Sung Period. University of California Press, 1993。文献列挙はかなわぬが、この法律の存在を南宋期の女子の地位に即応して理解する仁井田、柳田、バージ諸氏の議論が、当初からの一つの太い流れとしてある。

[10] 前注参照。

[11] 宋以降、K風峒など湖南の非漢族エスニックグループについての研究を総合的にまとめることはここでは不可能であるが、特に岡田宏二『中国華南民族社会史研究』(汲古書院、一九九三)三一、四八頁等。

[12] 岡田前掲書三二七〜三二九頁など。唐末以来の吉州彭氏については異論もある。伊藤宏明「唐末五代期における江西地域の在地勢力について」川勝等編著『中国貴族制社会の研究』(京都大学人文科学研究所刊、一九八七)および岡田前掲書三九二〜三九六頁参照。

[13] 宋慈と范応鈴に関しては『清明集』巻二「巡検因究実取乞」(宋慈)、危氏との関連で同巻九「母在与兄弟有分」(劉克荘)、「争墓木致死」(蔡杭)、黄榦『勉斎先生黄文粛公文集』巻三八「危教授論熊祥停盜」。欧陽守道『巽齋文集』巻一五「吉州竜泉県丞庁記」に「初郡太守西堂范公応鈴、実請於朝、曰竜泉外隣猺峒、内蔽遮万安太和」とあり、范応鈴は、知州であった当時、吉州西端竜泉県とその東の万安県あたりにおいて猺峒と対していたとする。彭氏についても検討すべき記事が多い。

[14] 注4所引『後村集』巻一九三「建昌県劉氏訴立嗣事」中の「県丞」。

[15] これについては岡田前掲書三七八〜三八四頁。

[16] 滋賀氏『家族法』四四七頁。

[17] 柳田前掲二論文参照。

[18] 現実からまったく遊離した法律も考えにくい、とする川村康氏の所見(「書評:柳田節子「宋代女子の財産権」」『法政史研究』四二、一九九一)がある。

[19] 津田氏は前掲論文を「宋代にはなにゆえ行政を法令準拠主義的に行おうとしたのかについてすら、私はいまだ発表すべき意見を持っていない」と結ばれる。この女子保護説には反論もある。柳田節子(書評)「高橋芳郎「親を亡くした女たちー南宋期のいわゆる女子財産権について」」『法制史研究』四六、一九九六。

[20] 本稿に於いて「江西」というとき、とくに断りがない場合は、宋代の江西路あるいは現代の江西省の版図の全域を排他的に指し示すのではなく、当時の史料がしばしば、信州・饒州や湖南と共通してその風俗を問題にするときに用いる場合に当てはまるように、宋朝版図のなかでは福建とならぶ急激な開発によって特徴付けられる、江西路付近の諸社会を指し示している。

[21] 青木敦「健訟の地域的イメージー一一〜一三世紀江西社会の法文化と人口移動をめぐって」『社会経済史学』六五ー三、 一九九九。

[22] Aoki Atsushi. "Sung Legal Culture : An Analysis of the Application of Laws by Judges in the Ch'ingーMing Chi" Acta Asiatica, 84, 2003.

[23] 注19の津田コメント参照。

[24] 様々な形で、女子に分産が行われる事例が見られる。女子財産についての柳田氏の一連の研究以外にも、七:一、二〇:一など滋賀氏自身が女子にある程度取り分が認められた場合があったことは指摘しており(前出「女合承分」(范応鈴)、「継母将養老田遺嘱与親生女」(巻五、翁浩堂、一四〇頁、滋賀氏『家族法』四四八頁)、本稿冒頭張詠の事例もある。さらに、津田前掲論文では清代に地方官の裁量で男子がいてなお未婚女子に厚く粧奩の資が残された事例を紹介している(津田前掲書二七二頁)。また、翁育瑄氏から個人的に、新史料から女子の財産の取り分にかかわる興味深い事例をご教示いただいたことを深謝する。今後新たな参照事例が氏によって提供されることが期待される。

[25] 家産を嗣ぐべく親の死後立てられた養子を命継といい、命継の取り分や、残された女や没官の分を細かく定めた「諸已絶之家、而立継絶子孫、謂近親尊長命継者、於絶家財産、若只有在室諸女、即以全戸四分之一給之。若又有帰宗諸女、給五分之一。其在室並帰宗女、即以所得四分依戸絶法給之。止有帰宗諸女、依戸絶法外、即以其余減半給之、余没官。止有出嫁諸女者、即以全戸三分為率、以二分与出嫁女均給、一分没官。若無在室帰宗出嫁諸女、以全戸三分給一、並至三千貫止。即及二万貫、増給二千貫」という戸令が『清明集』中の「処分孤遺田産」(巻八、范応鈴、二八七頁)、「命継与立継不同」の再判(巻八、著者不明、二六六頁)に見られる。この法を戸絶財産法と呼ぶこととする。これについても従来から議論があるが、凡その研究史は大澤前掲論文に譲る。

[26] 滋賀氏は、「広東・広西・福建地方では、他の地方におけるよりも、夫人が自由であり影響力をもっていた」とするOlga Lang氏(Chinese Family and Society. Yale University Press,  1946)の指摘に触れる(滋賀氏前掲「中国家族法補考」(一))。宋代の江西、福建、明清の四川、広東・西といった開発地帯における女子の地位について更に人類学的検討が必要かもしれぬが、本稿にはその余裕はない。また華北と華中華南の女子の地位を農業経済と関連させて論じた島田正郎氏の論考もある(島田正郎『東洋法史』東京教学社、 一九七六、(卓清湖訳)「南宋家産継承法上的幾種現象」『大陸雑誌』三〇ー四、一九六五)。

[27] K・バーンハート(沢崎京子訳)「中国史上の女子財産権ー宋代法は「例外」か」『中国ー社会と文化』一二 、一九九七(のち改変されKathryn Bernhardt. Women and property in China, 960-1949. Stanford University Press, 1999. pp.9ー46)。

[28] 佐立治人「唐戸令応分条の復元条文に対する疑問ーー南宋の女子分法をめぐる議論との関連で」『京都学園法学』一九九九ー一。

[29] 特にバーンハート氏は滋賀氏の女子分産否定論を更に進める方向だが、近年のBettine Birge. Women, Property, and Confucian Reaction in Sung and Yuan China: 960ー1368.Cambridge University Press, 2002は、宋代になって、政府が女子分産の現実にキャッチアップしたなど(p.80)、仁井田説に近く女子分法や慣習の意義を重視する。

[30] 青木前掲「健訟の地域的イメージ」の中で、江西と女子分法適用の関連付けの可能性について触れた。その後、女子分法に関して二〇〇一年八月二〇日、台湾国家図書館の漢学研究中心における国際会議「欲掩彌彰:中国史文化中的『私』与『情』」の中で「地域与国法ー南宋「女子分法」与江南民間慣習関係再考ー」として報告(中国語)した。本稿は、その際のペーパー「地域与国法:南宋「女子分法」与江南民間慣習関係再考」(日本語、邦題「地域と国法ー南宋「女子分法」と江南民間慣習の関係再考」)の一部を大幅に加筆・修正したものであるが、議論の骨子はすでに当ペーパーに示されたものと変わらない。なお、このペーパーは殆どそのまま中国語で当該会議の論文集に掲載される予定である。

[31] 滋賀氏『家族法』四四九頁。

[32] 川村前掲書評。(『宋刑統』から復元の)応分条の娉財の分配に示される二:一の比率が劉克荘の事例に拡大適用されたとしている。

[33] 養老戸令応分条(『日本思想体系 律令』岩波書店、一九七六)。

[34] 張詠の判決が七:三であるにもかかわらず劉克荘がこれを現行法の「女得男之半」の意である、としたのは、張詠が男子の約半分の財産を与えて女子を保護しようとした姿勢が、南宋の女子分法の持つ効力と同じである、と述べているのである。

[35] 中田薫「唐宋時代の家族共産制」『法制史論集』三、岩波書店、一九四三(もと『国家学会雑誌』四〇ー七・八、一九二六)。

[36] 津田前掲書二八三頁。

[37] Ebrey前掲書。

[38] 宋における敕や律の優先順位に関して川村康「慶元条法事類と宋代の法典」滋賀秀三編『中国法制史ー基本資料の研究』東京大学出版会、一九九三、同「宋代用律考」池田温編『日中律令制の諸相』東方書店、二〇〇二。

[39]「他郡均分之例」について、バーンハート氏の言う、「男と女それぞれの総量が等しくなる」という解釈はいかが。単に兄弟間での家産分割を「均分」と言い換える場合も少なくないが、「均分」とは、そもそも財産を複数の、等しい価値のユニットに分けることを意味する。つまりユニット間が等しいのであって、各々の継承者は、異なった数のユニット(男は二、女は一など)を継承することもある。 (3)aに関しては、女子の多い家は宗から財産が流出するが、男子の多い家は流入が多い。だが勿論、女子の誕生が歓迎されない場合は多いであろう。溺女は、明代には広東などで深刻となるが、宋代には江西でも報告されている。『江西通志』巻七五「羅棐恭……通判贛州、俗憎女、生則溺之、乃作溺女、戒文下十邑、悉禁民之溺女者」。

[40] Birge前掲書p.90、注70。

[41] いずれも諸氏の前掲論文、前掲書参照。

[42] 氏の前掲論文参照。

[43] 両氏の前掲論文参照、また小松恵子「宋代における女性の財産権について」『広島大学東洋史研究室報告』一三、一九九一も社会経済的視点を考慮する。

[44] 秀娘が遺棄された湖南の襄陽からそう遠くはない地点である。

[45] 「如龔暘歿而無子、有出嫁女二、在室女二、而婿甘其姓者、輒乃席巻家業。公遂照条、盡行拘回、以三分給二女之孤、以一分命継。」(陳柏泉編『江西出土墓誌選編』(江西教育出版社、一九九一)所載「従事郎趙継盛墓誌銘」。この事例については、坂元晶氏から様々な教示を得た。謝して記す。

[46] 25所引史料に「謂近親尊長命継者、於絶家財産、若只有在室諸女、即以全戸四分之一給之」とある。

[47] 『清明集』に扱われている地域を知る目安として、大澤正昭「『清明集』の世界ーー定量分析の試み」『上智史学』四二、一九九七は懲悪門から全ての地名を抜き出している。

[48] 范致明が言うところの江西とは、江南西路ではなくて、岳陽北方、洞庭湖の北側である。長江は南下して巴陵で洞庭湖に接するが、そのあたりの南下する長江の西岸が江西であり、ここではその婦人のことを叙述している。

[49] 范致明『岳陽風土記』に「馬援征諸溪蠻病死。壺頭山民思之、所到處祠廟具存、至今。婦人皆用方素蒙首、屈兩角繋腦後、云爲伏波將軍持服。鼎澧之民、率皆如此。巴陵江西及華容間、民有卑者、習俗巳久、不可頓革。問其故、則曰「去之則神怒立患頭疼、殊不知去包裹、自畏風寒也」。雖云風俗然、用方素蒙首、郡邑亦自當禁止。江西婦人、皆習男事、採薪負重、往往力勝男子、設或不能、則陰相詆誚。衣服之上、以帛為帶、交結兜前後、富者至用錦繡。其實便操作也、而自以爲禮服、其事甚著。皆云「武侯擒縱時所結、人畏其威、不敢輙去、因以成俗」。巴陵江西華容之民、猶間如此、鼎・澧亦然。湖湘之民、生男往往多作贅、生女反招壻舍居。然男子爲其婦家承門戸、不憚勞苦、無復怨悔。俗之移人、有如此者。湘湖民俗、歳時會集、或祷祠、多撃鼓、令男女踏歌、謂之歌場。……鄂岳之民、生子計産授口、有餘則殺之。大抵類閩俗」とある。関連事項について、砂田篤子氏の教示を得た。

[50] それを代表的に示す記事は『隋書』三一地理志「熙平郡」であり、「長沙郡又雑有夷蜒、名曰莫徭、自云其先祖有功、常免徭役、故以為名。其男子但、其女子青布衫、班布裙、通無鞋屩。婚嫁用鐵鈷〓為聘財。武陵、巴陵、零陵、桂陽、澧陽、衡山、熙平皆同焉、其喪葬之節、頗同於諸左云」などとある。岡田前掲書三八、四一四、四二七頁参照。

[51] 川村康「宋代における養子法(下)」『早稲田法学』六四ー二、一九八九。「湘湖民無子孫者、率以異姓為後、吏利其貲輒没入之。公曰、使人絶祀非政也、況養遺棄、固有法。存其後者幾二千家、潭州常平粟且四十万」(『止斎先生文集』附録「蔡(傅良)幼学行状」)。

[52] 前出『岳陽風土記』に「大抵類閩俗」とあるなど。更なる議論が必要であるが、当時の開発地帯、すなわち流入などにより人口が急増している湖南、江西、福建の、やや内陸の地帯などには、いくつかの共通した風俗イメージが確認される。

[53] 宋朝の蕃法について、例えば安国楼『宋朝周辺民族政策研究』文津出版社、一九九七、一五九〜一六七頁参照。

[54] 地域社会の秩序形式を風俗として理解する視点についてすでに簡述するのは難しく、『歴史学事典』第九巻「法と秩序」(弘文堂、二〇〇二年)、「風俗」の項(吉澤誠一郎)に譲る。

[55] 代表的なものとして竺沙雅章「第五章 喫菜事魔について」『宋元仏教文化史研究』汲古書院、二〇〇〇参照。さらに言えば、儒教的価値からは規範からの逸脱として語られる殺人祭鬼や溺女なども、それが慣習として行われている社会にあっては、秩序そのものの一部であるとも言える。

[56] 滋賀氏『家族法』一六〇頁

[57] 本文に前出の『清明集』巻八胡頴「侵用已検校財産論如擅支朝廷封樁物法」(二八〇頁)。

[58] 袁俐「宋代女性財産権述論」『宋史研究集刊』二、 一九八八は、北宋から南宋にかけて出嫁女が戸絶財産の三分の一を継承する定勢があった、とする。

[59]「又題準、凡無嗣人家産、繫兄弟之子承受、有親生女者、給家産三分之一」(『大清会典則例』三二康熙七年戸部則例「旗人撫養嗣子」)

[60] 『朱子語類』巻六九「坤」。『周易本義』には見えず。

[61] 「順之中有健以持之。如牝馬之順而健、乃其貞也。蓋陰不可以敵陽、故常減于陽之半。陽以先統後、而陰則僅得其後。」(『読易日鈔』巻一「坤」)。

[62] 元・梁寅の『周易参義』巻一にも坤を説明して「蓋坤所以承乾者、故常減於陽之半以前後言、則缼於前。以四方言、則虧於東北」という。

[63] 「武后則不止称制、廃中宗、立睿宗、而淫穢之声、播之後世、醜声無踰於此……夫、女陰也、男陽也。陽得以兼陰、陰不得兼陽、故陰常減陽之半与。男得以兼女、女不得以兼男、故女常減男之半者。一爾乃天地之大義、陰陽之正道也。由此以観、則女主為陰、百官萬民為陽。武后以一介之陰、在百官万民衆之上。天地之義、已反悖矣。陰陽之道、已倒持矣」(『東渓日談録』巻一四「唐」)。

[64] 道教諸派の本拠地や重要な山は江西に最も多く、水滸伝にも知られた正一派・天師道の竜虎山が信州(宋代には江東)にあるのはその代表であることなどは想起すべきであろう。江西の道教諸派における位置については郭樹森「江西道教概説」『中国道教』一九九六ー三(総期第三九)など参照。上田信氏も、清代、風水師の多くが江西人を名乗っていたことを指摘している(「解説・清代の福建社会」『問俗録』東洋文庫、一九八八、二一二頁。付け加えれば、宋代において道教的影響が江西で最も深大であったことを示す一事例として、墓に副葬される地券の出土例が江西に於いて突出していた事実が指摘できる(前出『江西出土墓誌選編』五九二〜五九三頁)。今後、陰陽家との関連が検討されなければならない。

[65] 「修白鹿書院学舍、処学者。其教、以致知力行為本。江西俗好陰陽家言、有數十年不葬父母者。寶下令、士不葬親者不得与試、於是相率舉葬、以千計」(『明史』巻二八二「邵宝」伝)。

[66] これに関して、安藤智信「北宋期における陰陽家の吉凶禍福説と仏教ーー葬礼・択日・土地神・祈雨をめぐって」『大谷学報』六四ー一、一九八四参照。

[67]「久而不葬者。唯主喪者不除。其余以麻終。月数者除喪則已」(礼記』喪服小記)。

[68]「後為武康令、俗多厚葬、及有拘忌迴避歳月、停喪不葬者、循皆禁焉」(『晋書』巻六八「賀循」伝)、「時丹陽溧陽丁況等久喪而不棺葬」(『南史』巻三三「何承天」伝、中華書局標点本)。

[69] 埋葬をめぐる陰陽家批判は宋代史料には枚挙に暇がないが、陳傅良は、温州平陽について「初平陽之俗、以速葬為不壊。而其流入於陰陽家之説、与治賔客之事、俗成則聞見熟、聞見熟則異焉者」(『止斎先生文集』巻四八「朱公向壙誌」)と述べる。

[70] 司馬光『司馬文正公傳家集』巻六五「葬論」。

[71] .フリードマン(田村克己、 瀬川昌久訳)『中国の宗族と社会』弘文堂、 一九八七、第五章。

[72] この点、柳田前掲「南宋期家産分割における女承分について」において示された、明代以降朱子学の影響が強まるとうい見解を支持したい。

[73] 本稿には直接かかわらないが、我々が民族や国家のアナロジーから理解するものが何であるのかを、「中国」「寇」「蕃」などの言説分析を通じて主に宋〜清について論じた最近の著作として、笠井直美「〈われわれ〉の境界ー岳飛故事の通俗文藝の言説における国家と民族」(上)・(下)『名古屋大学言語文化部・国際言語文化研究科言語文化論集』第二三巻第二号・第二四巻第一号(二〇〇二)を挙げたい。

[74] 一五世紀末の李朝『経国大典』では男女平等に相続することとなっている(朝鮮総督府編『李朝の財産相続法』(国書刊行会、復刻一九八三年)参照)。高麗朝期の女子分法については旗田巍「高麗時代における土地の嫡長子相続 と奴婢の子女均分相続」『東洋文化』二二、一九五七。ベトナムについては宮澤千尋「ベトナム北部における女性の財産上の地位ー一九世紀から一九二〇年代末まで」『民族学研究』六〇ー四、一九九六、「「ベトナム北部における女性の財産上の地位ー19世紀から1920年代末まで」の補章」末成道男編『人類学からみたベトナム社会の基礎的研究ー社会構造と社会変動の理論的検討』(平成6・7年度科学研究費補助金(総合研究A)研究成果報告書)、一九九六参照、なお漢字法典とベトナムの女性財産権について、筆者の不躾な質問に対して、宮澤氏から多くの教示を得た。専門外の筆者の理解の及ばない所も多かったが、今後の比較史的課題として検討を続けたい。


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